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「行ってきます」が戻るまで

公開日 2026年9月10日著者 Ryoko Homma

発熱後、突然学校へ行けず、好きなハンバーグも食べられなくなった9歳の男の子。小さなおにぎりの一口から、少しずつ「いつもの朝」を取り戻すまでを描く、PANSの臨床経過を参考に再構成した物語です。

―突然変わった9歳の子の物語

この記事で紹介する経過は、PANSに関する既報の症例報告や臨床でみられる経過を参考に、個人が特定されないよう再構成したものです。特定の一人の患者さんの経過を、そのまま示したものではありません。

「お母さんも一緒に来て」

ドアの向こうには、昨日まで毎日歩いていた通学路があります。

ランドセルを背負っている。 靴も履いている。

あとは、ドアを開けるだけ。

それなのに男の子は、母親の腕をつかんだまま動けませんでした。

「お母さんも一緒に来て」

「どうしたの?」

「学校に行くのが、こわい」

母親の腕を握る手に、さらに力が入ります。

男の子は9歳でした。

学校から帰ると、ランドセルを玄関に置いたまま友達のところへ飛び出していく。宿題には文句を言うけれど、学校へは毎日楽しそうに通っていました。

「行ってきまーす」

母親の返事も待たず、ドアを開けて走っていく。

それが、いつもの朝でした。

数日前、男の子には発熱とのどの痛みがありました。

けれど、熱は下がっています。

家族は、もう治ったと思っていました。

だから母親には、目の前で泣いているこの子と、数日前までの息子が、どうしてもつながりませんでした。

「学校で何かあったの?」

男の子は首を振ります。

「じゃあ、どうして?」

返事はありません。

ただ、母親の腕を握る手だけが離れませんでした。

その日の夕食は、男の子の大好きなハンバーグでした。

ところが、箸を持ったまま、皿をじっと見つめています。

「これ、食べたら吐く?」

「お腹が痛いの?」

「痛くない」

「じゃあ大丈夫よ。いつも食べているハンバーグでしょ?」

それでも、箸は動きません。

「本当に吐かない?」

「大丈夫だって言っているでしょう」

母親の声が、少し強くなりました。

男の子は箸を置きました。

そして、涙を袖で拭きながら言いました。

「ぼくも食べたいんだよ」

声を詰まらせながら、もう一度。

「食べたいけど、こわいんだよ」

母親は、そこで初めて何も言えなくなりました。

好き嫌いを言っているのではない。 わがままで食べないのでもない。

この子自身も、どうして食べられないのか分からず、苦しんでいる。

その夜から、男の子は一人で眠れなくなりました。

翌朝も、学校へ行けませんでした。

母親が隣の部屋へ行くだけで、慌てて後を追うようになりました。

玄関の鍵を何度確かめても、安心できません。

一週間前には、なかったことばかりでした。

「ぼくが弱虫になったの?」

家族は男の子を病院へ連れていきました。

診察室で、医師が尋ねます。

「この変化が起きる前は、どんなお子さんでしたか?」

普通に食べていました。

一人で眠っていました。

友達と遊び、毎日学校へ通っていました。

それが、発熱のあと、数日のうちに変わってしまった。

話しながら母親は、ようやく気づきました。

できなくなったことを一つずつ並べるたび、その向こうに、少し前までの息子がいる。

医師は男の子にも尋ねました。

「学校には行きたい?」

男の子は床を見たまま、うなずきました。

「でも、行こうとすると、こわくなる」

PANS(小児急性発症神経精神症候群)では、強いこだわりや著しい食事制限などを中心に、不安、睡眠、学習、行動、排尿など、いくつもの領域に短期間で急激な変化が現れることがあります。

ただし、PANSは一つの血液検査だけで診断できるものではありません。

感染症、身体疾患、神経疾患、精神疾患など、ほかの原因が隠れていないかを確かめながら、発症前後の経過を丁寧にみていく必要があります。

男の子にも身体診察や神経学的な診察、必要な検査が行われました。

感染症への治療とともに、医師の管理のもとで炎症に対する治療も始まりました。

診察の終わりに、医師が男の子へ言いました。

「急にできないことが増えたのは、君のせいじゃないよ」

男の子が、ゆっくり顔を上げます。

「ぼくが弱虫になったからじゃないの?」

「違うよ」

医師は答えました。

「君は、学校に行きたくないんじゃない。食べたくないわけでもない。行きたいし、食べたいのに、今は脳や体から強い『こわい』が出てしまうんだ」

男の子は黙って聞いていました。

「だから、一緒に少しずつ戻していこう」

しばらくして、男の子は小さくうなずきました。

診察室を出るとき、その顔はまだ不安そうでした。

それでも、入ってきたときより、ほんの少しだけ前を向いていました。

小さなおにぎり

治療が始まっても、翌日から元の生活へ戻れたわけではありません。

次の朝も、その次の朝も、学校には行けませんでした。

食べられるものも、まだ多くありません。

ある朝、母親は小さなおにぎりを一つだけ、皿に置きました。

「全部食べなくていいからね」

男の子は、しばらくおにぎりを見つめていました。

やがて手を伸ばし、一口。

母親は、何も言わずに待ちました。

少しして、もう一口。

「これ、ちょっと塩辛い」

久しぶりに聞いた、いつもの息子らしい言葉でした。

母親は笑おうとしました。

けれど、うまく笑えません。

「そうだった?」

そう答えた途端、頬に涙が伝いました。

食べられたのは、ほんの小さなおにぎり。

それでも家族にとっては、失われた日常が戻ってくる最初の一口でした。

しばらくして、男の子が言いました。

「校門までなら、行ってみる」

教室まで行かなくてもいい。

校門まで行けたら、そこで帰ってもいい。

二人は並んで、学校へ向かいました。

校門まで行けた日。

保健室まで入れた日。

そして、一時間だけ授業を受けられた日。

その帰り道、母親が尋ねました。

「どうだった?」

「疲れた」

男の子は、前を向いたまま歩いていました。

しばらくして、小さな声が聞こえました。

「明日も、行けるかも」

母親は、すぐには返事をしませんでした。

「行けるよ」と言ってしまえば、また頑張らせてしまう気がしたからです。

ただ、男の子の隣を同じ速さで歩きながら答えました。

「うん。明日になったら、一緒に考えよう」

また、あの朝に戻ってしまう

学校で過ごせる時間が少しずつ増えてきた頃、男の子は胃腸炎にかかりました。

嘔吐が治まったあとの朝。

制服を前にして、男の子は動きませんでした。

「今日は、学校に行けない」

その夜から、また一人で眠れなくなりました。

玄関の鍵も、何度も確かめます。

母親は、壁に掛かったランドセルを見つめました。

また、あの朝に戻ってしまった。

ここまで積み重ねてきたものが、全部なくなってしまった。

そう思いました。

けれど翌朝、男の子は小さなおにぎりを半分食べました。

数日後には、自分でランドセルを背負いました。

「今日は、保健室だけにする」

男の子は、自分でそう決めました。

二人は、もう一度、校門へ向かいました。

回復は、一直線ではありませんでした。

良くなったと思ったあとに、再び症状が強くなることもありました。

それでも男の子の中には、最初の頃にはなかったものが残っていました。

小さく食べられた経験。

校門まで歩けた経験。

保健室で過ごせた経験。

一度戻ってきた力は、すべて消えてしまったわけではありませんでした。

「もう一人で行ける」

それから数か月後の朝。

男の子は玄関でランドセルを背負い、靴を履いていました。

母親も一緒に出ようと、靴へ足を入れます。

すると男の子が言いました。

「もういいよ」

母親が顔を上げます。

「もう一人で行ける」

男の子は、自分でドアを開けました。

数歩進んだところで振り返ります。

「行ってきまーす」

そして、母親の返事を待たずに走っていきました。

数か月前まで、当たり前だった朝。

けれど今は、当たり前ではないと知っている朝。

母親は玄関に立ったまま、その後ろ姿が見えなくなるまで見送っていました。

「いってらっしゃい」

ようやく出た声は、もう男の子には届かなかったかもしれません。

それでも、よかったのです。

返事を待たずに走っていく。

それこそが、ずっと待ち続けていた「いつもの朝」でした。


※このストーリーは、PANSに関する既報の症例報告や臨床でみられる経過を参考に再構成したものであり、特定の一人の患者さんの経過ではありません。

PANSの症状や重症度、治療への反応、回復までの時間には大きな個人差があります。抗菌薬やNSAIDsなどの抗炎症薬も、すべての子どもに同じように使用されるものではありません。感染症の有無、症状、持病、薬剤のリスクなどを踏まえ、医師が個別に判断します。

また、複数の治療や支援、自然な時間経過が重なるため、この物語から特定の治療だけの効果を判断することはできません。

子どもの様子が短期間で大きく変わったとき、それを「わがまま」「甘え」「性格の問題」だけで片づけないことが大切です。同時に、PANS以外の病気を見逃さないためにも、早めに医療機関へ相談する必要があります。

回復は、一直線ではないことがあります。

一度のflareで、すべてが振り出しに戻ったように見えることもあります。

それでも、子どもがそれまでに取り戻してきた力まで、すべて失われたとは限りません。

「行きたくない」の奥に、 「本当は行きたい」があるかもしれない。

「食べたくない」の奥に、 「食べたいけれど、こわい」があるかもしれない。

その声にならない気持ちに気づくことが、子どもを支える最初の一歩になります。

参考文献

  1. Masterson EE, Miles K, Schlenk N, et al. Defining Clinical Course of Patients Evaluated for Pediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome: Phenotypic Classification Based on 10 Years of Clinical Data. Developmental Neuroscience. 2025;47(4):270–286. DOI: 10.1159/000545598. PMID: 40188825.

  2. Gromark C, Hesselmark E, Djupedal IG, et al. A Two-to-Five Year Follow-Up of a Pediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome Cohort. Child Psychiatry & Human Development. 2022;53(2):354–364. DOI: 10.1007/s10578-021-01135-4. PMID: 33559023.

  3. Newby MJ, Lane SJ, Haracz K, Tona J, Palazzi K, Lambkin D. Occupational Performance Patterns in Children with Paediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome. Australian Occupational Therapy Journal. 2025;72(1):e12995. DOI: 10.1111/1440-1630.12995. PMID: 39375074.

  4. Gromark C, Harris RA, Wickström R, et al. Establishing a Pediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome Clinic: Baseline Clinical Features of the Pediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome Cohort at Karolinska Institutet. Journal of Child and Adolescent Psychopharmacology. 2019;29(8):625–633. DOI: 10.1089/cap.2018.0127. PMID: 31170007.

  5. Frankovich J, Thienemann M, Rana S, Chang K. Five Youth with Pediatric Acute-Onset Neuropsychiatric Syndrome of Differing Etiologies. Journal of Child and Adolescent Psychopharmacology. 2015;25(1):31–37. DOI: 10.1089/cap.2014.0056. PMID: 25695942. PMCID: PMC4442568.

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